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hamajiさんへ 気づいていただけるでしょうかw

asakistasakist
2011年3月22日 18:26
とある方の作品に私がコメントを残したところ、hamajiさんが私の意見に疑問を持たれたようですのでこちらの掲示板を拝借させていただいて返答をさせていただきます。
作品ページのほうで返答をするのはあまりに作者様に対して迷惑のかかる行為かと思いこちらに移させていただきました。

初めにことわりを入れさせていただきますが、私の文はどう気にかけても長文になってしまいます。
同じ意味合いのことを言い回しを変えて何度も言ったり、要点をまとめず考え付いたことをそのまま生かす形で文を書かせていただきますので、
あまりに長ったらしいかと思いますが読み流すか何か処置をとっていただく方向でどうかご容赦ください。


>僕は何が偽善で何が善かを考えるべきだと思います。

これはつまり、善の対義語=偽善だと捉えていて、偽善=悪だと捉えていらっしゃいます?
それならばまずその時点で私とは話が合いませんなー

まず真っ先に根源である「何が善で何が悪か」を考えなければなりません。
善を基にして考えられる偽善自体、基が決まってなければ定まりませんし、悪を基にして考えられる偽悪自体、基が決まってなければ定まりません。

それとも、何が善かを考えれば、それによって定まった善以外のものはすべて悪だと言い切るつもりでしょうか。
そこらへん、いささか把握しかねますのでこれ以上は考えませんがw


>倫理観とはだれが決める、という指摘でちょっと悩みました。

私は一言も、倫理観とはだれが決めるか、なんてことで指摘はしておりませんなー。どこを読んでそう指摘してると思われたのか書いていただきましょうw
「倫理観を誰が決めるか」ではないんです。「誰かが決めた倫理観の正当性」を、一体だれが保証してくれるのかが問題なんです。
倫理、道徳、宗教倫理etc. こんなもの、誰が決めるかなんて明白で、私もしっかり明記していたつもりですが読みづらかったでしょうかな。
いつだって決めるのは人間です。きまってますねそんなこと、人間社会ですから。


> 法律です。法律は政治家が決めていますよね、そしたら法律は人の倫理観を集約したものです。
 人を殺すな、物を盗むな、これがまちがってるとは思いませんが、これすら倫理観の正しさは証明できないのでしょうか?


社会を構成している、多くの人間が当たり前のものとして持っている共通感覚や規範こそが倫理です。
hamajiさんが挙げられた法律だって無論倫理です、法規範ですものね。
法律は国ごと、のような位相によって多少違いはあるでしょうが、主要なものはどこも似たようなものが決まってますね。
人を殺すな人を傷つけるな他人を拘束するな他人のものを盗むな。

別に私はこれらの規範が間違ってるとは思いません。人を殺すことは悪いことだ、人のものを盗るのは悪いことだってずっと教わってきましたし、
ならばそれらが正しい行いだとは私個人は一切考えません。

じゃあ。だからといって。
法律で定まっているからといって、人を殺してはいけないという考えが正しいという保証はどこにあるんですか?
人を殺すな、物を盗むな、これらの法律自体が単なる倫理なのであって、倫理観の正しさを保証するものではありません。
倫理観自体が倫理観を保証したところで何になるんですww私の正気を私自身が保証したところでそんなものごみくず程の価値もない

倫理を定めるのはいつだって人間です。先ほどから述べてますね。つまり、法律=人間の思想の集約です。
「人間の思想の集約」を、その基である「人間」が保証したところで、それは保証になってるんですか?正しさは保証されてるのですかな?

保証なんてされるわけがありませんw いくら民主的に考えて大多数の人間が賛同して、
「じゃあその大多数の人間が保証になってくれるよ!」って言っても、結局は人間が作り上げたものを、人間が保証していることに変わりはないんですww

そんなものが正しさの証明に使えると思えますでしょうか?

そう考えれば、何が正しくて何が間違いか、何が善で何が悪かなんて、最終的に公平に決まることはあり得ないんです。

無論、割り切ることはできますよ?
単純明快に考えれば、自分がされて嫌なことは悪いことだから人殺し、窃盗は悪だ! なんて結論すぐにでます。
そして、その割り切りに妥協をして、法律等は現状定まってます。
でも、割り切ることはあまりに公平でない。割り切れないものを無理に割り切ろうとすれば、切り捨てが生じます。

切り捨ては公平ですか?切り捨てられたものは、元々存在していたものなのに、目をそむけてなかったことにするのが切り捨てです。
善悪なんて、割り切れるものではありません。そんな簡単な方程式であったなら、今までに最高の結論はでてるはずです。
そんな善悪を今まで、切り捨てを行ってなんとか形にした。それが法律であったりするわけです。
なら、今まで切り捨てられてきたものとは何か。保証じゃないですか。

何の保証もないんです。裏打ちされた絶対があるわけではないのに、そこをどうすることもできないから切り捨てて今の善悪の基準は設けられているんです。
切り捨て自体、善なのか悪なのかお答えいただきたいものです。

そこで私が今度はhamajiさんにお聞きしたい。何度も尋ねていることですがw
人間が定めた倫理の正しさを、一体どなたが保証してくださるんです?一体何が保証になってくださるんです?
宗教倫理などはかろうじて、神という不可視の存在が、その正しさを保証してくださってますが、結局、その保証者である神様の正気をどなたがなにが保証してくれるんです?お答えください。


だからこそ私は、「答えを探すこと自体 なんか違う気がしてる」という、作品の一文に大いに感銘を受けました。
答えなんてあるはずがないですもの。保証もなしに憶測で証明したものなんて、正確な答えにはなり得ない。

そして、でない答えを無駄に長々と追い求めて停滞するくらいなら、
自分が生きてきた中で触れ合ってきた、守りたいと思えるものだけを信じていけばいいのではないか、と提案させていただきました。
無駄に何が善で何が悪かを考えるくらいなら、自分の中でこうしたいと思えたことをやりぬけばいいと思います。
それがたとえ100円募金であろうと、1万円募金であろうと、祈りであろうと応援であろうと、あるいはテレビの前で流し見しようと、
自分がこうしたいと思えたことを、他人と比べずに実行すればいいだけのことで、善悪のような机の上でいつでもできる論議は今は無視すればいい、と提案させていただきました。
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hamazihamazi
2011年3月26日 22:56
あ、一つ聞きたいです。やったやらないとは人の為の行為のことですよね、じゃあ、保身かもしれないですが、僕の意味があるのかないのかの考えも、あながち傲慢じゃないと思います。
hamazihamazi
2011年3月26日 22:51
はまじです。そういうことか!と思いました。
比較をしていた僕に謝れってことっすか…まあ、謝ります。

祈っていた方、すみませんでした。

ただ、一つ知ってほしいのは祈り嫌いだったので、祈りを否定したかっただけで、何かやろうとしてる人を批判しようとしたワケじゃないです。仮にどれが偽善でも善でも意味があれば関係ないっすね。

アサキストさん、ありがとうございました。

asakistasakist
2011年3月26日 18:08
はまじさん、こんにちは。

んん、そうですね、思いこみ。この一言ですね。同意見です。
思いこみで自分の意見は正しいものだと考えるから、その意見を他人に押し付けてしまう。
「○○教は最高だから、入ってないやつは極刑だ!」・・・極めて極端な例ですが、これと同じことですよねw
定かではない共通倫理を勝手に枠づけしてしまうから、比較をしてしまうんですなぁ。

ではここから派生して、『その比較は正しいか』をお考えいただきたい。(最初からこれだけ聞きたかったのですがw)
思いこみで共通倫理のボーダーラインを定めた人がいて、そのボーダーラインを越えない人は偽善だ、自己満足だ、と非難をする。
Aさんは被災地のために祈ったけれど、Bさんはそれを自己満足だと言い、Cさんは被災地のために千羽鶴を折ったけれど、Dさんはそれを自己満足だと言う。
今回の震災で、様々な人が自身の個人倫理を信じて他者の行動を偽善だー自己満足だー、と苛みました。
このスレッドが作られるきっかけとなった作品のほうでも、「一秒でも早く明るい未来を そんなこと言ってたら 誰かが偽善と言った」、という文がありました。
そんな行為は、自身と他者の倫理を比較することは正しいことでしょうか。お答えください。

ちなみにこの問題に関する私の答えは、このスレッドが作られるきっかけの作品に残したコメントに間接的ではありますが書かせてもらってますw
hamazihamazi
2011年3月26日 08:40
どうも、はまじです。考えてみました。
Bさんの立場から考えてみますと、Aさんは偽善または少ない善だと考えて批判しているんだと思います。それはなぜか、おそらくBさんにとっての善、偽善の境界が 
行いの意味が自己満足を超えているのかどうかということにあるからだと思います。
Bさんの倫理観はBさんの感覚です。
AさんとBさんを同じ強さでつねって、同時に痛いと叫ぶことはないでしょう、感覚は人それぞれだから。
善行や共通倫理=法律などはこのつねるという行為を見て痛みを感じる行為だと淡々と見るのに対し、B君の思う偽善はこの痛みを感じる度合いを考えてしまうと言っていいでしょう。
法律などはいわば共通の感覚、B君の言う偽善は個人の感覚です。ということは個人の倫理。
B君は自己満足を善行が越えると思う境界は共通倫理だと思っていて、その境界が1000円であり、それを超えないA君を偽善だと思っているのでしょう。
つまり結論は、個人の倫理(感覚の度合い)を共通倫理(一般の感覚認識)だと思いこむからです。
asakistasakist
2011年3月26日 04:40

hamajiさん、こんばんわ。

んん、盲信しろ、とは言いませんが、元々祈りに意味がなければ今日まで残ることはまずありませんので、
なぜ祈りというものが今日まで残っているのか、そこを考えたらきっと早期のうちに意味は見つかっていたことと思います。
物事には基本意味が伴いますからね。意味さえ見つけていれば、もっと深く信仰できるかもしれません。

切り捨てられるもの=滞りを生む問題。それでいいと思いますねー。都合の悪い問題、とも言えますね
たとえば今回の件で私がしきりに挙げました保証というもの。私はしつこいくらいに善悪には保証がない、と言い続けました。
善悪を前に保証なんてものを考え始めたら、結局だれも何も保証なんてできないんですよねw
保証なんてものを言いだしたら、物事は全然先へ進めない。すべてが破たんしてしまいます。滞ってしまいます。
なので、臭いものには蓋、ではないですが、都合の悪いものにはスポットライトを当てないようにして、四捨五入が如く切り捨てて論を先に進める。
そうやって先に進めば、みんなにとっては都合の良いものが残りますので、結果的にみんなに幸せをもたらすものになるんですねー。甘い蜜だけは吸いたがるものですw

んん、私にとって偽善とは善の派生だと考えていますので、やはり相対とは別の考え方ですからねー
そもそもが食い違ってますよねきっとw

問題提起を、とのことですが、私自身基本的に問題意識が芽生えない性格でして、
たとえちょっと疑問に思ったことがあっても自己解決してしまいますので、問題提起は苦手でございますw
別に閉塞的な考え方しかできないわけではないですがw
今回の件も、特に私の中では疑問に思ったこともございませんので問題提起のほうはなかなか無理ですねーw

まぁ、ひとつだけ挙げておきましょうかwこれ以上は無理ですw
『どうして比較するのですか?』
善悪なんて考え方は結局は保証がないので、最終的には個々人の裁量で見極めていく、または信じていくもの。
言わば善悪なんて個人倫理です。個人の今までの経験則で決めていくものです。
個人の経験則で善悪を決めるのならば、人それぞれ善と悪の価値観、どこからどこまでが善でどこからどこまでが悪かの境界線は変わってきますよね?
そう考えれば、偽善にあたる境界線も、個々人によって変わってくるはずです。
たとえば、Aさんにとっての善が、Bさんにとっての悪であったり、Cさんにとっての善が、Dさんにとっての偽善であったり。
そうやって、善、悪、偽善、偽悪の境界線は人それぞれ変わってくるわけですから、比較したところで何にもならないはずなんです。
たとえば、Aさんにとっては100円でも募金することが善だと認識していても、Bさんにとっては1000円募金することが善だと認識しているとして。
実質Bさんは、Aさんよりも高いお金を出すことが善になっているとして、BさんからすればAさんは善行為はしていないことになり、
Aさんの行為は善ではなく自己満足だ!と言い始めます。共通倫理として「募金は1000円からだ!」とか決まってるわけではないのに。

でも待ってください。そもそも善悪は最終的に個人倫理で決まってくるものです。共通認識的な倫理では保証がありませんからね。
ならばそもそも、AさんとBさんを比較すること自体が間違っていませんか?
人それぞれ価値観が違うのに、その価値観どうしを比べたところで優劣なんて決まるのでしょうか?
Aさんは純粋な苦みのおーい、お茶派でBさんは甘みがある生茶派だとして、そもそもの価値観が違うのに優劣なんてつくでしょうか。
自己満足という考え方だって、自分と相手を比べて、自分の価値観に相手が劣っているな、と思うから、相手に自身の価値観を押し付けるわけですよね?
自己嫌悪に際して使うわけでなければ、自己満足という考え方は自身の善の強要にあたりますよね。
押し付けることは善なのでしょうか?そもそも、比較することは善なのでしょうか?自分にとっての善を強要することは善なのでしょうか?
それらをふまえて、『どうして比較するのか』、どうして善だ偽善だと考えたとき、人と人とを比較するのか、お答えいただけたらと思います。
hamazihamazi
2011年3月26日 00:03
言い忘れましたが、僕は善と偽善を相対的に見ているので、
絶対主義じゃないです。よくよく考えれば、僕とあなたは対立してなかった気もします、倫理観の話辺りで熱くなってすっかり忘れてました。ただ物事深く見るのはあなたの方が上ですし、そこら辺は負けてるなと思います。なので問題提起してください。僕もいろいろ意見言いたいです。
hamazihamazi
2011年3月25日 23:51
どうも、はまじです。
僕はキリスト教なんですが、最近、祈ってることに嫌気がさしました。こんなの意味があるのかと、しかし、祈りにも色々な形があり、伝えることで意味を持つんだなと思いました。同じキリスト教信者からすれば、だれかが祈っていること自体が意味を持つかもしれないですね。

後、前の話ですが、切り捨てとはなんですか?僕の解釈は滞ってしまう問題といった感じなんですがいいですか?

あなたからも問題提起をしてください!
asakistasakist
2011年3月25日 01:24
hamajiさん
こんばんわ。強制2分割で返答させていただきますw

ん、私は今年で20になりますねー確か。自分の歳に興味ないんではっきりとは言えませんがw
中学生の時分というのは、誰も同じように啓発されやすい年頃ですから、若干数歳離れてる存在にも感化されやすいのかもしれませんなー
ですが、感化される相手を見極める目を持たなければ、守るべき自身の倫理観の形成は難しいかもですなーw
私に感化されていてはだめですよーw もっと正しい視野を持ちませんと、様々なものに翻弄されてしまいますw

大学はただの文学部ですねー。人間学なんて大変そうなもの、私は絶対いやでございますw



>祈りとは?効果の有無は?

んん、そもそもの祈りの性質と、今日の祈りの在り方のふたつを考えてみるといろいろと変わってくるかな、と思います。

そもそも、祈り自体に意味がないのでしたら、祈りという概念が生まれてから今日までその形式が残っているはずがありませんからねー。人間は取捨選択の生き物ですから
祈りという行為は元々、神様や神様に近しい存在にお願い事をしたり神様のお声を聞こうというものです。
(これは本来自分が救われるために行うもので、他人を救ったりというものではないのでしょうけれど、
そこに関しては知識不足ですからはっきりとしたことは言えませんなw)
これは極めて宗教寄りの行いで、キリスト教ならキリスト教、イスラム教ならイスラム教と、それぞれの宗教によって形式は違いますが、それぞれの神様に交信をしようと試みるもので、
キリスト教ならキリスト教、イスラム教ならイスラム教という、一種のコミュニティの中でだけ、初めて効力を発揮するものです。

なので、宗教的視点で考えれば、たとえばA教の方が同じくA教に入っている被災者の方のために祈れば、
それは同じ神を崇めているコミュニティ内での宗教行為となりますので、宗教倫理としてしっかりと意味のある行為になりますねー
宗教倫理では善になると思います。

ただ、多くの日本人は現在無宗教で、特定の神を崇めている方は非常に少ないわけですから、そんな現代での祈りという行為の意味は大幅に変わっているわけですよね。
たぶん、hamajiさんが言われている「祈り」という行為は、宗教色を加味なされて考えていらっしゃるわけではないのでしょう。

無宗教な私たちが、特定的でない、一種統合的な神様という宗教色の薄れた単なる概念にむけてお願いをする。
この行為を現代では祈りと置いているわけですよね。祈り=願望という点は昔からずっと変わっていませんが、
そもそもの考え方から大きく簡略化され、制約などがゆるくなった、おいしいところだけにスポットを当てた捉え方ですねw
この時点で私たちが普段祈りだと考えている行為自体、祈りという言葉で表すにはおこがましいはずですが、まぁその点はあまり気にせずにいきましょうかw

ではこの行為に意味があるか意味がないか。私は意味があると思っています。
たぶんhamajiさんは、手を交差させ、一人きりで「祈るだけ」という行為を思い浮かべていて、だから祈りとは無意味だ、と考えていらっしゃるのではないでしょうか。
「祈るだけ」だから、自己満足で終わってしまうと考えていらっしゃるのは間違ってはいないとも思いますが、
「祈るだけ」ということしか考えないのはいささか視野を広げなければならないかな、とも思います。

「祈るだけ」という形式は、宗教倫理の中では効力を発揮します。しかし、それはあくまで祈るという行為を、宗教色が色濃く残った状態で見たときだけ。
私たちが日常に使う、宗教色の薄くなった「祈り」という行為に照らし合わせてみれば、それは一切の効力を持ちません。
ですが私たちは、祈るという行為を簡略化しました。宗教色を薄め、大衆にとって身近なものになりました。
それならば、「祈り」の形式も変わるはずですね。
「祈り」の概念が変化したのに、「祈り」の形式は昔のまま、なんてことにはなり得ませんよねw祈りが身近でなくなってしまいますものw
asakistasakist
2011年3月25日 01:23
現代の祈りの形式は、その言葉の通りに「祈るだけ」ではなくなりました。
たとえば、被災地の方に向けて声に出して、たとえば、被災地の方に向けて文字として、たとえば、被災地の方に向けて映像として、
「がんばって」なり「応援してます」なりねぎらいを伴った形で安全を祈ったりする。
こんな行為も祈りとして捉えられるようになりました。大衆化した「祈り」という行為を表現する、「祈り」の形式もまた大衆化しただけのことですねw

それらの形でもって被災地に送れば、それらは被災者にとっての勇気に変わります。
勇気とは最終的に生きる活力に変わり、生きる活力に変わるということは自身を保とうとする本能に通じるということです。
勇気自体は目に見えて効力を発揮するものではありませんが、本能を復活させるという点で効力を持ちます。
本能がどれだけ役割を持つものなのかは以前の返答で分かっていただけたかと思いますので、きっとこれがどれだけ強い効果を持っているかもおわかりいただけるかと思いますw
本能を復活させるという点では、応援歌を聴かせることと同じ意味が生じてますね。

ただ、勇気付けるという意味を保たせるには、上記で書いたとおり声や文字や映像として、何らかの媒体を用いて届けなければなりません。
一人偶像に向かって手を合わせているのでは祈りという行為の意味を殺してしまいます。
祈りという行為を声や映像で表した場合には、ネット媒体なりを通じて公表をしなければ効力を発揮しませんし、
文字として表した場合には、TVのニュースなんかで呼びかけてる「被災者への応援メッセージコーナー」なりに投稿しなければ効力を発揮しません。
「祈ること」自体には効力は生じます。「祈るだけ」では効力は殺されてしまいます。

歌も同じことが言えます。たとえば有名なアーティストが被災者に向けて応援ソングをつくったとして、
それをアーティストの自宅で録音もせずただ「歌うだけ」では一切効力が発揮されません。
「歌うこと」自体には効力は生じます。「歌うだけ」では効力は殺されてしまいます。

作詞だって同じことが言えます。たとえば私たちが利用させていただいてる「Gunjo Lyrics」にはたくさんの作詞者さんがいらっしゃいます。
その作詞者さんのなかには、今回の地震に対して思うところがあって、被災者さんに向けての応援のメッセージを込めた作品を投稿なさった方がいらっしゃいます。
応援のメッセージが込められている作品なので、それを目にした被災者の方は、みんながみんなとは言いませんが勇気づけられる方もいらっしゃいます。
ですが、勇気づけられるのはその作品が公表されていて、目に入れることができるからです。
これがもし、作詞者さんのノートにだけ書かれていて、誰にも公表しないのであれば、一切の効力も発揮はされません。
「書くこと」自体には効力は生じます。「書くだけ」では効力は殺されてしまいます。

これらのことから分かりますように、「祈る」なら「祈るだけ」では効果は生じません。
「祈る」という行為を何らかの手段を用いて公表しなければ効果は生じません。
これはほかの行為にも言えて、「~だけ」では絶対的に効果は生じません。
このことを考えれば、「祈る」という行為自体にも、確実に効果は生じます。
なんらかの媒体を用いて公表をして、被災者に届く経路を見出せば、そこには確実に効果が生じてきます。
hamazihamazi
2011年3月23日 22:50
はまじです。確かアサキストさん、18ですよね、僕は中2なんで、僕からすれば、あなたは兄貴分ですね。(尊敬は重かったかも)

感覚=本能であり、法律=人の本能を守るため、人の本能を抑えるものというのは、すごい良い解釈だなと思いました。
大学で何か人間学部とか入っているんですか?

ところで善の話ですが、僕は善=効果がある、他人の幸福を増大させる 偽善=自己満足が、他人の幸福の増大より優先的 (大分あやふやですが)だと思います。
これはあなたの善=善行 偽善=下心の多い善行
というのとちょっと似ていると思います。
ただ、効果の有無というのが重要かもしれませんね、
①ここで質問ですが、(いいかな)
例えば「祈り」とは? 祈りはあなたの言う善行かもしれません、しかし、祈りは善行でも効果がないように思います。
なので僕の定義では、祈りは効果<自己満足となり、偽善となります。なので、善には効果が関係ない理由を聞かせてください。それとも、効果があるんでしょうか?

余談ですが、僕の目標は自分の倫理観を形成することです。
なので、善悪を公に決めることができないにしても、自分の中では決めたいです。
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